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自分史 – NO MUSIC, NO LIFE|久保田サトシ

久保田の話

久保田サトシ
1968年生まれ

本史を書いている今日は
2025年7月某日

57歳である今までの
自分史を綴らせていただきます

関心のある人がいるとは
思えませんが

思いつきで書くこともないので
書き残してみようと思います

私の人生は「音楽」で
染め上げられています

今でもそうですが
弾くのも、聞くのも、創るのも
音楽とは離れられない人生です

まずは未成年だった頃から
私の根幹である「ロック」に
ピントが合うまでの話をします

幼少期の学校生活

大分県大分市生まれ

父親は公務員
母親は理髪資格を持った専業主婦
よくイジメた3つ下の弟

世の中で手本とされるような
幸せな家庭ですくすくと育ちました

しかし
何不自由なく育ち上がった私にとって

なぜか小中学校時代は
決して楽しいものではありませんでした

特に学業に対する興味を
見いだせず

時折学校を休むことが
多かったのです

東稙田小学校(大分市)


そんな中でも
音楽と数学の授業だけは
不思議と好きで

リコーダーや歌など
なぜか積極的に取り組めていました

私の家庭は四人家族


家庭には母が幼少期から嗜んできた
琴が2本あり
母自身、琴の先生をしておりました

しかし父も母も
ロックとは無縁の人物

家には和楽器以外
洋風な音は存在していませんでした


ラジオ〜Radio

小学校4年生の頃
初めて自分で稼いだお小遣いで
小さなラジオを買いました

こんな感じの小さいラジオ


それは私にとって
初めて手にした
「自分だけの機械」でした

スイッチを入れると
どこか遠くの知らない世界から
音楽が流れてきます

番組もそうですが
流れている音楽に関心がありました

中でも
昼のリクエスト番組で
初めて耳にする「フォーク・ロック」に
なんとも言えない衝撃を感じました

それは当時流行っていた
「アリス」でした

絶妙なハーモニーを奏で
聞いたこともない日本語の歌詞に
虜になってしましました

フォークギターを中心にした
アリスの音楽スタイルは

やわなフォークミュージックではなく

初めて聞く「ややロック」な
サウンドが

小学生の私に
ちょうど良かったのかもしれません

「自分もギターを弾き、歌ってみたい」

――そんな衝動が芽生えた瞬間でした


フォークギターを買うために。。。

小学校5年生の私は
新聞配達を始めました

夕方の配達で貯めた
お金の目的はただ一つ

フォークギターを
手に入れることでした


街の楽器店で見つけた
モーリスのギターを
20,000円で購入しました

選んだ理由はシンプルでした

――アリスのメンバーが使っていたからです



ギターを手にした私は
フォークギター用のコードブックを購入し
独学で練習を始めました

しかし、「F」のコードが抑えられず
指には無数の血豆ができました



カセットテープを
擦り切れるほど聴き

耳で覚え、繰り返し弾く日々

中学を卒業したら
東京へ行きミュージシャンになる!

と心から思っていました


ビートルズ

1980年12月
私が小学校6年生の時

ジョン・レノンが死にました

ニューヨーク・ダコタハウスの前で
ファンに撃たれて死にました

ニュースは一斉に
ジョンの死を取り上げ

ラジオで時々流れる
ジョン・レノンの名前と

あまりよく知らなかった
ビートルズというキーワードに
「ピント」が合ってしまいました

世界中がたった一人の
ミュージシャンの死を悲しみ
祈り続ける姿に

未知の音楽である「ビートルズ」に
自分の感性のピントが合ってしまったのです


まだまだ
インターネットがない1980年代


音楽情報の中心は本と雑誌でした

街中の古本屋をまわり
ビートルズの書籍を買い漁りました

そしてテレビでは
年末などに
ビートルズ特番をやっており

そこで初めて
動くビートルズを見ました


ベーシストの認識だった
ポールマッカートニーが

ピアノを弾き歌う姿に
衝撃を覚え

私もピアノを始めました



しかし我が家は男系で
ピアノがありませんでした

そこで新聞配達を夕刊配達から
給料がいい朝刊配達に変え

貯金をしキーボードを買いました


70,000円でした


今考えると
おもちゃのようなキーボードです

でも鍵盤を初めて見る私にとって
白い鍵盤は輝いて見えました


最初に覚えたコードは「C」
「ド・ミ・ソ」の3和音です

ビートルズの「レットイットビー」の
はじまりのコードでした

7万円のRolandのキーボード


誰も教えてくれないピアノを
必死に独学で弾き続けました

抑えると音が鳴る楽器に
興奮がおさまりませんでした

そして中学3年の進路相談時期を
迎えました


高校生活と音楽への没頭

中学3年生の進路相談では
担任の先生に

「高校には行かず、ミュージシャンになりたい」

と相談をしましたが
納得した指導が得られませんでした

先生も「ミュージシャンになる方法」
を知らなかったのです

当たり前の結果ですが

まだまだ子供の
世間知らずな私としては

「先生はわからないのでとりあえず高校に行け!」

と先生から言われると
弱いものです

独自に判断して受験した
国立高等専門学校(高専)でしたが

受験に失敗しました

結果として県立の
地元の工業高校に進学することに
なりました

しかも機械科でした

別に機械科には関心なく

合格しそうだったから受験した
というのが進学の理由です

男子校・機械科の3年間では
機械設計や旋盤・鋳造など

当時の私にはどうでもいい授業を
たくさん受けました


高校時代の音楽仲間と部活

工業高校は男子校でした

楽しみが半減しましたが
男子ばかりの同級生の中に
音楽が好きなやつが数人いました

しかも同じクラスでした


私は彼らとバンド組み
バンド活動を始めました

彼らからの影響で
幅広い音楽の刺激を受けました


ちょっと不良のグループから
誘われたのはロック….

そして真面目なグループの
連中から誘われたのはジャズフュージョン…

2つのバンドを
掛け持ちし

両方ともキーボードを
弾いていました

様々なコンテストを受けましたが
その全てに落ちました….

地元の高校生バンドコンテストでは
3年連続予選落ちでした。。。

高校1年生の時
部活に入ろうと考えました


実は中学まで野球やバスケなど
スポーツ系の部活を経験してきましたが

高校生活の部活はブラスバンド部に
入りました

男だけのブラスバンド部です

そこで高校1・ 2年でドラム
3年生の時にサックスを担当しました

夕方部活が終わり音楽室で
ドラムを叩いたりピアノを弾いたり

放課後の音楽室は
私にとってプライベートな
スタジオでした

イメージ


マクドナルドが人生を変える

実家から高校までの通学道途中に
マクドナルドがありました

高校一年でバイトできるのは
マクドナルドが最適でした

我が校ではバイトは禁止されていましたが
同級生はみんなやっていました

朝6:00から店を開けて
高校へ8:30までに行き

高校終わりで部活をサボり
17:00ぐらいから また働く….

週末は当然の如く
盆・正月は稼ぎまくりました

当時の時給400円…
途中で450円まで上がりました

一生懸命働き
月30,000円を稼ぎ出し
新しいキーボードを買いました


そして高校3年の夏、人生の岐路

高校生活は相変わらずでしたが
音楽活動が面白くなり

将来への夢が沸々と湧いてきた
高校三年生のころ

中学の時と同じように
高校クラスの先生に質問をしました

「どうやったらミュージシャンになれるのか?」

先生は答えをくれませんでした

いいえ …

またもや答えが
わからなかったのでしょう…

そりゃ無理もありません

工業高校の先生が
音楽家への進路を
答えられるはずもありません


ですので
私は自分で探すことにしました

インターネットが
まだ世に存在しない1985年の夏

とにかく解決方法を
知ってる人に聞くしか
ありませんでした

しかし私の周りに
ミュージシャンへの道へ

導いてくれる
大人はいませんでした

Encounter with Katsuya Tamura


そんな時
バイト先のマクドナルドに

地元の音楽大学へ通う
年上のバイト生がいました

その人へ相談したところ
大きなヒントをくれました

「毎月大分市にレッスンにきている大御所先生」

を紹介してくれたのです

北九州の田村勝哉先生でした

私は田村先生に会いに行き
自分の思いを打ち明けました

すると先生は
「高校卒業したらすぐに北九州に出てきなさい」
とお誘いをいただきました

私は高校卒業と同時に
北九州の田村先生のところへ
弟子入りすることとなりました

当時、田村先生は福岡を拠点に
様々な音楽学校の名誉教授を務められており

お弟子さんも大勢
北九州市内にいらっしゃいました


先生はジャズをメインに
地元で指導されており

ジャズと言うジャンルには
程遠かった私にとって
知的好奇心を強く刺激されました

そして卒業とともに
不安いっぱいの

おっかない北九州での生活を
始めることになりました

久保田サトシ
18歳の春のことです

北九州での新しい生活

1986年
路面電車が走り
暴力団の抗争が日常だった小倉北区で

はじめての一人暮らしが
始まりました

正確に言うと
田村先生がかつてお住まいだった旧家にて

先輩であるお弟子さんと
折半で費用を負担し
共同生活を始めることとなりました

私自身、右も左もわからない
クソガキでしたので
先輩には本当にご迷惑おかけしました


北九州市小倉北区での生活

とりあえず
食っていくために

田村先生に紹介された
生演奏が楽しめるライブパブで
夜〜深夜のアルバイトを始めました

厨房で料理を作り
閉店間際のわずかな時間
お客様へピアノを弾かせてもらう

そんな生活が始まりました




当時よくしていただいた
ダンディなヒゲの店長がいました

大分の田舎から出てきた私へ
何かと気にかけてくださる存在でした


ガキだった私は
小倉で出逢う方々から

少しずついろんなことを
学ばさせてもらいました


それらは
ピアノや音楽理論だけでは
ありません

人間としての責任感とは?
仕事とは何か?


恋愛もそうでした

どの方との出逢いも
自分の人生にとって
かけがえのないものでした

マクドナルドへの転身

アルバイトを続けていたライブパブが
数ヶ月で潰れました…

生活するために働き口を探して
昔やったことのある

近所のマクドナルドに行って
面接してもらいました

高校生の時にA-crewまで
昇格した経験のある私は

あっという間に頭角を表し
バイトながらマネージャーまで
起用していただきました

なんとボーナスがあり
金庫の鍵まで持たされていました

今でも役に立っているマクドナルドからの学び

驚くべきことですが

1980年代のマクドナルドでは
1店舗のアルバイトが120名に対し

店舗社員3名程度で
コントロールできる仕組みがありました

・教育の仕組み
・昇格の仕組み
・店舗コントロール
・外食産業のいろは

アルバイトマネージャーとして
現場のあれこれを一通り学びました

なかでも一番おもしろかったのは
最前線で動くフランチャイズの仕組み

その裏側には
けっこう興味津々でした

会社経営者となった今でも
役に立っていることが
多くあります


私も1歩間違えば
マクドナルドの社員に
なっていたかもしれません….


それぐらい
マクドナルドの仕事は
楽しく充実したものでした

上京への決意と、ある恩人との出逢い

18歳から22歳まで4年間
マクドナルドとバンドの
生活が続きました

地元の大学生とバンドを組み
ライブや遊びに明け暮れました

しかしある時
状況が一変します

バイト先で知り合った
東京のスタジオミュージシャンに誘われて

レコーディングスタジオを見学することに

今思えば
あれが東京に踏み出す最初のきっかけでした

後日なけなしの金をはたき
東京の指定されたスタジオへ
向かいました



実は私は「東京アンチ」

田舎を切り捨てて
いかにも“東京かぶれ”みたいに
なってる人を見ると

正直うんざりしてました

ああはなりたくないなと
ずっと思ってました

「ロン毛」で「チャン」付し合う
かぶれた大人が滑稽に見え

わざわざ来た自分の目で見た
現役ミュージシャンの面々が

全然カッコよく見えませんでした


なんか業界のチャラい大人

それにヘコヘコ従う
スタジオエンジニア


やってる音楽も
私の好みではなくつまらない…

後で聞いたら
そこは「長◯剛」さんの
レコーディングだったそうで

私に誘いの声をかけてきたのは

そのアレンジャー
だったそうです


若輩者の私の
結論から言えば


私が目指していたのは
ここではなかったようです

やっぱり東京しかない…と思っていたところに

しかしそこは80年代
当時の音楽事情として

東京以外に
チャンスは少なく

やはり上京するしか
道はないものと思っていた私は

その足で
不動産会社に駆け込み

多摩に6畳一間のアパートを
契約しました

そして両親に挨拶に
帰郷していたところに

ちょうど私の叔父から
家へ遊びに来いと電話がありました

運命の分かれ道

叔父曰く
「今日知り合いが来るんだ」
との話でした

叔父の家へ行き
しばらく待っていると

そこに
ひげ面のちょいワル風の
かっこいいおじさんが来ました


地元大分市で
スタジオやイベント業を
やってこられてた

株式会社オーティスの
川北祐司さんです

オーティスと言えば
僕たちが高校生の頃

地元で憧れとなっていた
スタジオオーナーでした

レコーディングスタジオも
そうですが

リハーサルスタジオ
そしてライブハウスまで

街のど真ん中にあったのが
オーティスさんでした

初めて答えをくれた大人

叔父は私のためを思い
自分の知り合いの中から

音楽に一番詳しいと判断した
友人である川北社長を呼んでいたのでした

私は川北社長に
こう尋ねました

ミュージシャンになりたいんです
東京で何か紹介してくれませんか?


そうすると
川北社長は私にこう語りました

ミュージシャンになりたいんだったら
ニューヨークに行けば?

若干22歳で
視野の狭かった私にしたら

ニューヨークなんて
どこにあるかもしれません。。。


ただロックやブルースなど
音楽の世界の中心にあるのが

ニューヨークであることだけは
知っていました


「東京」という名の
土俵に上がるくらいだったら

「世界一」の土俵に
上がったほうがいい!

というのが
川北社長のアドバイスでした



その言葉に衝撃を受け
目を丸くしていた私に

川北社長はこう尋ねます

明日からファッションショーの
仕事があるんだけど2〜3日よければバイトしないか?

3日間が私の人生を変えることになる

オーティスという会社は
音響・照明・舞台演出など
様々なものを手がけていました

そして
たまたまですが

私は舞台の裏側
つまり制作する側の
仕事体験をさせていただいたのです


ファッションショーですから
きれいなモデルさん方がたくさんおり

クリエイティブであり
エンターテイメントでありながら

とても華やかな場でした




そして三日間一緒に
泊まり込みで仕事をしました


もちろん私は
荷物を運ぶことから始まりましたが

本番の音出しなどを命じられ
初めてオペレーションしました


そして泊まりだった
その仕事の夜

川北社長と
いろいろ話をしたのです

川北さんも若かりしころ
ミュージシャンを目指し
夢を求めて上京したひとりでした

スポットライトを
浴びるミュージシャン

そしてそれらを動かす制作マン

様々な話を聞いた
私の脳裏に浮かんだのは

自分が見に行った
数々のコンサートです

もちろん主役である
アーティストが中心ですが

それらを輝かせていた
バンドメンバーや

コンサート制作の大勢のスタッフの
存在があるからこそ

私には輝いて見えた
コンサートになっていたのだと

その時初めて気づき


自分の未熟さと無知さに
大きな気づきをいただきました

川北社長は東京を選ばず
地元大分で世界一の仕事をしていたのです


私はショックを受け
今後自分の進路について
1週間考え込みました

そして私が出した行動の結論は
東京引き払い

大分に帰り
川北社長の下で働くことでした。。。

22歳で社会人の門をたたく

住んでいた北九州も引き払い
大分に帰ってきた私は

その足で手土産を買いに行き
オーティスを訪ねました

「 ここで働かせてください!」



そのころ地元大分では
初のFM曲が開局する準備に
追われていました

「エアレディオ エフエム大分」です

エフエム大分は
開局当時
全国初の地方独立局

つまりキー局を背景に持たず

自分たちだけで独立採算を目指す
FMラジオ局として全国から注目され
開局を控えていました


もちろんオーティスも
制作プロダクションとして招聘され
準備に追われていました

ちょうど制作スタッフが不足し
必要だったタイミングでした

まだまだ大分では
バブルが弾ける前の
1990年9月のことです

制作を通じて本当の音楽がわかる

私はオーティスの
制作スタジオで

毎日毎日BGMやジングルの制作に
取り掛かっていました

そこで先輩方から
レコーディングテクニックを覚え

音響・照明・イベント
ラジオの制作・ディレクションなど
馬車馬のように働きました

入社初期の3ヶ月は
家に着替えに帰るだけで
ほとんど会社にいました

楽しくて楽しくて
仕方がなかったのです

自分が触ってみたかった機械や
ノウハウが全てそこにあったからです

仕事に明け暮れた22代〜35歳

  • エンターテインメント業
  • 音響・照明業
  • 動画制作業
  • ホームページ制作業
  • システム開発業
  • テレビ番組制作業
  • ラジオ番組制作業
  • コンサート制作業
  • レコーディング制作業
  • AR・VR制作業
  • デザイン制作業
  • WEBマーケティング業
  • イベント企画制作業

私がプロフィールに書く
自分のできることの大部分が

この時代に
勉強させていただいたことです

先にも書いたように
「馬車馬」と言う言葉がぴったりな
青年期を過ごしました


週末や盆正月など
一般が休みの時に働く。。。

私の人生の助走期間は
学びの毎日でした

そして
35歳で結婚をしました

商工会議所青年部との出逢い

日本全国どこにでも
「YEG」という団体があります

商工会議所青年部会
という組織です

32歳で入会させられ
活動を始めます

45歳までの地域貢献・次世代育成
の会で

仲間作りや
“まち”への責任感と愛着を
大切にした会でした

「東京アンチ・都会アンチ」
だった私にとって

地元活性化を目指す
同世代の若手経営者が集う会

なにかウキウキするものを
感じました

一緒に話し合い
酒を飲み

汗を流し
祭りなどの事業を創る

どれも初めての経験で
130人の大分を愛する友達が
一気にできました

YEGで出会った仲間たちとは
今でも濃いつき合いが続いています

仕事も遊びも
とことん付き合える
“戦友”のような存在です

一生懸命やるからこそ
汗が出て、涙が出ます

そして本当の友情が芽生え
一生付き合っていける仲間ができます


若かりし頃の大きな大きな勘違い

入会当時の私は
当然サラリーマン

会社が「入会して勉強してこい」と
送り込んでくれたのです

YEGは地域イベントする機会が多く
仕事でイベントをやっている私は
注目の新人でした!(自画自賛)


しかし
入会してからの若輩者32歳の私は
当時こんな大きな勘違いをしてしまいます


「この会には大した大人がいなく、すぐに上の役職について活躍できる。。。」

つまり私は
だんだんと心の中で

会員の皆さんを
どこか見下すようになっていたのです

なぜそのような勘違いを
していたのか?


それは私の
勝ち気でわがままな性格も
あると思いますが

一番の原因は
当時イベント会社に勤めていた私にとって

祭りやイベントばかりしていた
青年部活動は「朝飯前」だったからです

世の中の同様の会で
イベント業出身者にはアルアルな話ですね


当然ですよ
本職なんですから。。。


先輩であろうが
青年部会長であろうが

イベント事業での議論では
常に上から目線です

当時
私の中で勝手につけていた
「YEG人間ランキング」

新人ながら久保田サトシは
圧倒的上位に存在していました。。。

どんどん落ちていく自分の人間ランキング

しかしそのうち活動を通じ
汗をかき仲間と付き合っていくことで
みんなの本質が見えてきます

熱く語り合い
自身の意見を懸命にぶつけることで

その人という人間が見えてきたのです

中には
引くことで人を引きつける人。

優しさでひとを引きつける人。

不器用だけど
情熱と魂で人を引きつける人。

それぞれが
それぞれの汗をかき

一生懸命に対峙する。。。。

私にはない
人間味を目の当たりにしたのです

当たり前ですが
自分自身の人間ランキングは

「自分が決めるものではない」

と言うことがわかってきました。

その人には
その人にしか出せない一生懸命さや
優しさが一人一人にあり

人が人に惚れることを経験し

決して器用でない人にも魂を感じ

ついていく人間関係を
感じるようになりました

当然、私自身の
青年部内人間ランキング
自分の中でどんどんと下がっていきます

わたしは、
青年部の先輩方からから学びました


「人を動かす、故郷を動かすためには、
頭の回転が速く、器用で、

かっこよく、お金を持っている。。。。

こんな要素は必要なく、

その個人個人のために
何ができるかを一生懸命に考え

先頭に立って汗を描くことが必要」

であることを。。。

私はそののち、
42歳の時に大分YEGの会長となります


決して立派な会長では
なかったと思いますが

人を思い汗だけは
人一倍かくようになっていました

会長当時の
青年部内人間ランキングは
下から数えた方が早かったように思えます

会長へと推挙していただき
ついてきてくれた当時の戦友に

今でも心から感謝しています

20年のサラリーマン時代に終止符

大分YEG会長を
務めていた当時

私はまだサラリーマンでした

経営者の友人たちの前に立つ
立場でありながら

自分が経営者ではないことに
強い違和感を抱いていました

何か大きな判断を下す場面では
自分一人では決めきれない

それが
どうしても引っかかっていたのです

というのも
会社から出してもらっている
立場である以上

活動内容については
会社に報告する義務があります

時間を使うときも
費用が発生する場面でも

いちいち社内に確認を
取らなければいけない

当然といえば当然なのですが——

そうした積み重ねが

いつしか自分の中で「無駄なブレーキ」に
なっていることに気づいたのです

要するに
「自分で決められない」という感覚
どうしようもなく歯がゆかったのです

そして大分YEGの会長任期を終えた
42歳の秋のことでした

会社が同族に
事業承継されたことにより

自らの志との乖離(かいり)を痛感し
退職を決意しました

起業

2010年11月
20年お世話になった会社を辞め
自分でやることにしました

退職した次の日に
開業届を出しに行き

ロックス・カンパニーを
スタートさせました

スタートは自分の部屋から
パソコン1台でのスタートでした

何で食っていくのかも決めず
不安は当然ありましたが
ただなんとなく自信もありました

移動のために自転車を買いに
先輩の自転車さんに行き

手に入れたマウンテンバイクで
大分市内をあてもなく走り回りました

快晴で浴びる追い風は
今までに感じたことのない自由さと

未来への高揚感で
いっぱいだったのを覚えています

そして2ヶ月後
7坪の事務所を借り

本格的に事業所を構えました

ロックス・カンパニーの事業

前職から独立するにあたり
私は顧客を一切持ち出さないと
決めていました

大好きだった前職に対して
せめてものけじめのつもりでした

だからこそ
まったく重ならない分野

——IT事業1本で勝負すると
心に決めたのです

2010年、ちょうどその頃

大分県が創業支援施設の
入居者を募集していることを知り
プレゼンテーションに応募します

これを機に
私は自分のIT事業を本格的に
スタートさせました

当時始めたのは
会議やイベントの
インターネットによるライブ中継

県内ではまだ誰もやっていなかった
新しい分野でした

しかしそんな未知の分野が
急にお金になるわけがありません


2011年

まだまだYouTubeこそあったものの

SNSはFacebook以外
流行を見せておらず

インターネットは動画を流すのに
通信速度が追いついていない時代でした

当然満足な仕事にはありつけず
営業活動に勤しむ毎日でした

当面の運転資金として
用意していた通帳の残高は
みるみる減っていき

ついには底をつき
借金生活が始まります

いつの間にか従業員も増え
ブライダル事業等予定してなかった
事業展開を必死に続けていました

そして何より
ロックス・カンパニーは
IT業であるはずなのに

周りはそうは見てくれませんでした

どうやったら自分たちは
顧客から理想の見られ方ができるのか

自問自答しながら
様々な事業展開を繰り返し

何とか会社を盛り上げている最中。。

2020年
コロナがやってきました。。。

売上ゼロの黒字時代

コロナは2020年春から
徐々に影響が出てきました

弊社が運営するパスポートセンター
(写真撮影業務)

海外渡航者がいなくなり
売り上げがなくなりました

閉店したくても
大分市との契約がある限り

家賃と人件費は
払い続けなければなりません

そしてITやイベント業務にも
支障が出てきました

『コロナをチャンスと思え』
と経済評論家はほざいていましたが

中小零細企業には
未曾有の危機になりました

とにかく会社を潰さない。。。

その一心で
眠れない日々が3年続きました



その間
一発逆転の事業も行いました

補助金をいただきながら
運転資金の借り入れも行い

なんとか延命に明け暮れましたが

コロナ禍最中
好転はしませんでした。。。

ある人との出逢い

ある日
地元の中小企業家同友会の
定例会に

広島から講師が来ました

「板坂裕治郎」

裕治郎さんに対する
私の当時の印象はあまりいいものでは
ありませんでした(ごめんなさい)

でも力強いその話しっぷりは
コロナで落ち込み
出口の見えない当時の私に

ぐい〜〜〜と入ってきました

裕治郎さんは
ブログを書き続けることで
全国の経営者が

再生するきっかけを
与えてきた人でした


ブログの効果やその手法は
当然IT屋である私たちにしてみれば
当たり前に知っている世界

「ブログは宣伝ツールである」
という認識で「いまさら」と追う印象でした

例会後の打ち上げで
同席させていただいた裕治郎さん

すっかりファンになり
この身を預けてみようかと
決断しました


そして現在もまだまだ
お付き合いは続いています

50歳を過ぎ学んだ「考え方」

裕治郎さんの教えは
ブログではありませんでした

まずは経営者のダメな心を正し
100%人生を再生させる!

そのためのツールの一つが
ブログなのです

私は多くのブロガーとの
付き合いを通じ

自分自身のことや
自分が世間の役に立つことなどを

毎日ブログに書き綴ることを
始めました

コロナも終わり
私のブログが600号を迎えたある日

『SNSの活用に関する
セミナーを行なってほしい』

との依頼がきました


私はようやく
理想であるIT業の姿を

世間から認められた
第一歩を踏み出すことができたのです


終わりに

現在、会社は好転し
おかげさまで昨期は最高益を
達成しました

まだまだやりたいことがたくさんあります



今後も本史を更新しつつ
自分の夢を叶えていきたいと思っています

毎日ブログ(最近毎日ではありませんが)
を通じ

今後もお付き合いいただけたら幸いです

久保田サトシ

プロフィール

1968年大分市生まれ
株式会社ロックス・カンパニー代表取締役
大分県立大分工業高校 卒

22歳でイベント制作会社に入社し、テレビ番組や大型イベントの企画・運営に従事。20年間にわたり、現場での経験と信頼を積み重ねてきたが、会社が同族に事業承継されたことにより、自らの志との乖離を痛感し、退職を決意。2010年、インターネットコンテンツ制作を主軸とした「株式会社ロックス・カンパニー」を創業。ネット中継、WEB制作、ITツール導入支援などを軸にIT事業を展開する。

しかし、創業当初は前職で築かれたイメージが強く、なかなか「本来の自分」としての立ち位置を築けず苦しむ中で、リーマンショック、さらにコロナ禍という逆風にも直面。度重なる経営危機を乗り越えながらも、「地方発の価値ある挑戦を、世界に届けたい」という信念を持ち続ける。

自身が持つ「アンチ都会」の精神は、ただの反骨ではなく、地方で懸命に生きる人々の魅力を誰よりも信じているがゆえ。広告費に頼らず、SNSや無料のデジタルツールを活用して、情報発信力を飛躍的に高める“実践型・低コスト”のITコーチングを確立。「わからないことを、気軽に聞ける存在」として、特に中小・零細企業の経営者や地域の起業家から高い支持を得る。

これまでに約200社へのIT支援・情報発信の伴走を行い、「郷土の挑戦者たち」を「世界に誇れるチャンピオン」へと導くため、現在も地域の最前線で奮闘中。

単なる経営支援にとどまらず、「地方から世界へ」という壮大なビジョンを掲げ、日本のローカルの底力を信じるすべての人と共に歩むことを使命としている。

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